体重減らしたいなぁと思って、昔買った自転車こぎのホコリを払って30分くらい漕ぐことにした。
ある程度運動をすると、眠りが深くなる気もする
まぁ体重はそう減らないだろうけど。
スーパーで牡蠣を見てたら、鍋への欲求が止められなくなり、鍋の素を探すが、でてくるのはモツ鍋のもとだけ。
もう季節は移り変わっているのだなぁと思いつつ、えいやっとモツ鍋を作った。
うまいのだが、次の日残った鍋を見ると、氷のような油が覆っている。
これを昨日食べてたんだ、罪深い食べ物だなあと思う
まぁ体重減らしたい人間が食べるものでないのは確か。
遅きに失したが、ガツガツ油を除去して残りを食す。
まぁ一人で食べる鍋じゃないよね。山程胡椒かけるとめちゃうまいんだが。
暖かくなってきて、桜も満開。
トコトコ歩くにはいい季節になってきた。
さぁどこに行くのかというと、学校に行ってるよくわからなさ。
母がなくなり、あまり縛られることがなくなったのだろうけど、誰かの世話をしてるほうがマシということもある。
といっても、学生から論文があがっていたのもあり、まぁ色々早く済ましてあげなければ行けない事情もあって(そういうのを金曜日に持ってくるしなぁ)、土日は論文校正に費やした。
へのへのイズムを押し付けるきらいはあって、どこまで踏み込むかなぁといつも迷う。何回か書いてるかもだけど、学生の能力向上も図らなければならないから、(時間が許せば)2,3回は大雑把に問題点だけ指摘して、直してもらう。
どんな学生でも、最初は議論・結論がバラけてるというのが直しどころな気がする。
彼らにとってはやったことが等価に尊いことで取捨選択(言葉の綾でそんなに捨てたりはしない、重い軽いを分ける)ができにくいのだと思う。
だけど、カレーと中華丼を並べられると人は戸惑うだろうし(ホテルの朝メニューではありそう)、第三者として思い入れのない読者も雑多な素材をさぁどうぞと言われても困るところがあると思う。
持論ではリーダビリティが高い論文は印象が良くなって、査読に効果ありである。
リーダビリティとは何かというと、飛躍が少なく読者が書いているヒトの思考をたどりやすい、すなわち、寄り道が少ないまっすぐした道筋を誘導できていることだと思う。
よって解決→あらたな課題の提示→解決→繰り返し→仮説の証明という流れを作る。
具体的に言えば各章の最後に次の章の引きを作るのが私のクセで、章の題名も学生に任せるとひどく端的だが、その章の方向性を誘導して読みやすくすることを考える。
このあたりのテクニックは嫌いな人もいるので、良かれ悪しかれかもしれない。
リーダビリティのない読み物は駄目だと思うんだけどなぁ。
Discussionあたりは経験がないと、同じことを何回も議論するというのがありがち。
出てくる順番に問題があるケースも多い。
これは思いつき順に書くからそうなる。
良いんだけど、一度要点を抜き出して、どう並べたらわかりやすいのか考えろとよく指導する。
なんか作文でそういう設計図を書くって習慣がないのかなぁ。
まぁ経験かもしれない、ここ何年で、ざっと議論の方向性を見分ける能力はあがってきた気がする
なんといっても校正は本文を書くよりは楽である、僕も偉くなったものだ(皮肉)
とはいえ、本週末は2本やってたら、どうも頭がフラフラしてきた。
それなりに頭は使っているらしい。